仙台原子力問題研究グループに新しい投稿があります ▼“ブラック”な線量見直し・トリチウム放出など▼

―最近の気になる動き 75― <2018.3.11記>

▼ “ブラック”な線量見直し・トリチウム放出など ▼

3.2規制委・放射線審議会は、被曝線量が年1ミリシーベルトを超えない目安の空間線量0.23マイクロシーベルト/時について、これは屋外に8時間、室内に16時間滞在する生活を仮定した数値だったが、「実際に住民の被曝量を測ってみると、想定よりも下回っている」(数分の1にとどまる)との研究が出ており、「審議会の有識者らから『数字が独り歩きをしている』『復興を妨げる要因となっている』などの意見も出て」いることから、見直しを議論することにした、とのこと<2018.3.3朝日>。
その研究の詳細を筆者は知りませんが、実際の被曝線量が想定以下ということは(全住民の被曝量を正確に測定し、全員が年1ミリシーベルト以下だったのなら)、その想定が“安全側に設定”されたもので“適切”だったと判断し、今後も維持継続すればいいだけです(ただし「屋外8時間・室内16時間」の仮定が適切かどうか疑問ですが)。
ところが、「審議会の有識者ら」の発想は違うようで、『復興』のためには「年1ミリシーベルト」ギリギリまで被曝させる(ような空間線量を設定する)ことが“適切”で、あたかも人間には「年1ミリシーベルト」までの‘被曝容量’があり、それ以下の被曝しか受けない状態は“もったいない”(もっと被曝させられるのに!)とでも考えているようです。残業の上限時間が設定されたら、その時間まで残業させないと“もったいない・不経済”と考えるブラック企業と同様の発想です(審議会有「識」者の“知識・良識”のレベルが知れます)。
3.10講演会で小出裕章さんが強調していましたが、子供の放射線への感受性は一般人(30歳)の2~4倍高いということからすれば、「年1ミリシーベルト・0.23マイクロシーベルト/時」の基準でさえも、子供たちが暮らす可能性のある地域の線量基準として、いわば未来に対する責任として、“適切”かどうか疑わしいと思います。おそらく高齢で放射線感受性も良識も低下した審議会有識者の“ブラック”な線量見直しを、決して許してはなりません。
同様に、ひび割れ・初期剛性低下したとはいえ女川原発が存在するのだから、再稼動させないと“もったいない”という東北電力の方針も、再稼動は新たな放射性廃(棄)物を未来世代に押し付けることでしかなく、決して認められません。

また、同じ<3.3朝日>で、福島第一原発にたまり続ける放射性トリチウム水が「廃炉工程の大きな妨げになっている」として、「薄めて海に流す」ことを規制委が「勧めている」ことも報じられています。これも、地球(海)という“大きな希釈容量”があるから、福島第一原発に溜まっている“微々たる”トリチウムを「垂れ流す」ことなど問題ない、タダで海洋放出できるのに(手に余る地下水を汲み上げて希釈に使えばまさに“一石二鳥”で、金食い虫の「凍土壁」は不要になるかも?)、費用をかけてタンク内に貯蔵しておくのは“不経済・もったいない”と、ブラックな原子力ムラ・規制委・東電が考えているからにほかなりません。
濃度規制を盾に「薄めて流す」ことは、排出総量が少なければ、“局地的・一時的”に影響を緩和できるとは思いますが、それは、生態系における(生物・生体)濃縮や、放射性物質・環境ホルモン等の遺伝毒物など、様々な「環境因子・危険因子」が認識される前の、“誤った知識・認識”でしかありません。絶対量が多ければ、生態系(地域全体、ひいては地球全体)に対する影響が無視できなくなることは明らかです。福島第一原発から放出された放射能は、その膨大な放出量・環境蓄積量ゆえに、総量規制で対処(環境放出禁止)するしかないものです。
せっかく濃度規制が許されているのだから、費用をかけて保管せず、薄めて環境に捨て去らないと“もったいない”というブラックな発想からは、最終的には8000ベクレル/kg以上の「指定廃棄物」でさえも、一般ごみと混ぜて(薄めて)焼却したり、汚染のない稲わらで大量希釈して堆肥化や直接鋤き込み(土でも希釈)して、“無制限・合法的”に環境中に‘再び・堂々とばら撒く’ことしか生まれません(しかも、第一次加害者の東電から、自治体や農地所有者に責任転嫁。また、万一「悪影響」が出ても、放射能・放射線との因果関係を“科学的”に証明できないので、責任を問われることなくやりたい放題です)。
小出さんもおっしゃっていましたが、有機物(生ゴミ)なら環境中で自然に分解され無害になりますが(焼却もほぼ同じ)、『鳴り砂 №264』<気になる動き66>で述べたように、有機物・稲わらが分解・無害化しても、それらに一時的に‘付着・吸着・吸収’されただけの放射性セシウムは、‘煮ても焼いても’(半減期以外では)自然に減衰・分解することはなく、有害なまま、環境中に蓄積・拡散するだけです。
 <了>