会報「鳴り砂」2021年3月20日号が発行されました

会報「鳴り砂」2-111号(通巻290号)2021.3.20
会報「鳴り砂」2-111号(通巻290号)2021.3.20別冊

(1面論文です)
福島第一原発事故から10年 原発のない社会へ
私たちが学んだことをどう生かすかが問われている

「未曾有の災害」といわれた3.11から10年たった。しかし考えてみると、これまで三陸では明治・昭和・チリ地震と、この130年だけでも4回も大きな津波の被害を受けている。そうした中で、3.11とこれまでの津波被害の違いは、一つはその被害地域の広さと、もう一つは原発事故を伴ったことだ。
 復興したかどうかを尋ねるマスコミの調査では、岩手・宮城に比べ、福島の回答が明らかに低くなっている(例1:共同通信の住民アンケート 古里の復興を順調だと考える人 宮城80%、岩手66%、福島30%。例2:河北新報の首長アンケート「復興度」を「90%以上」と考える割合が全体の約6割に対し、福島県では過半数が「30~70%」と回答)
 福島第一原発事故が空間的にのみならず、時間的にも影響を与え続けていることを、私たちは改めて胸に刻まなくてはいけない。
 しかし、これは「たまたま」で、「原発は必要不可欠なエネルギー」だとする論調がまたぞろ出始めている。村井知事の言葉を再度確認しよう。「原発がある以上、事故が起こる可能性はある。事故があったからダメとなると、すべての乗り物を否定することになる。技術革新をして人類は発展してきた。福島の事故を教訓として、さらに高みを目指す」。これは言い換えれば、「人類の発展のために、事故の犠牲はやむを得ない」ということだ。

私たちが考えなくてはいけないのは、「科学技術の革新」が、常に「人類の発展」あるいは「人類の幸福」をもたらしてきたのか否か、ということだ。あるいは、「リスクとベネフィットのバランス」とよくいうけれども、リスクを一部の人間(地域)に負わせて、多数はベネフィットを享受することが、「人類の発展」と言えるのか、ということである。リスクと引き換えに、国や電力会社は地域の規模に不釣り合いなおカネをばらまき、そのおこぼれで地域経済を支えている現状がある。しかし、そうした構造が一瞬で崩れ、リスクの大きさ、続く苦しさ・悲しさに立ちつくさざるを得ないということが、原発事故から私たちが学んだことではないだろうか。

原発を拒否した自治体が日本中にある一方で、女川のようにいったん原発を受け入れてしまうと、なかなかそれを止めることは地域としては難しい現実があることは確かだが、原発のもつリスクの大きさに思考を停止してはならない。「巨額の安全対策工事」や「避難計画の策定義務」は、リスクの大きさを如実に示すものではあれ、決してリスクをなくすものではないのである。
 福島原発の廃炉作業は40年かかるとされている。廃炉のために懸命に頑張っている方には頭の下がる思いだが、スケジュール通りにいかないことは誰の目にも明らかである。残念ながら、周辺自治体はその間、放射能と絶えず向き合っていかなければならない。この長きにわたる心理的・社会的・経済的負担をもたらすリスクは、原子力発電特有のものであることは何度強調しても強調しすぎることはない(もちろん、汚染水も含めて)。

 現在、「さようなら原発みやぎ実行委員会」が〝ちょっとまって!女川原発再稼働〟と題したチラシを全県配布する計画がスタートしている。これは昨年の村井知事の「同意」に対し、「果たして被災地で再び原発が動くことがあっていいの?」という声がある一方、「もう再稼働は決まったのでは?」と受け止める人もいることを受けてのものだ。県内に広く存在する再稼働に疑問をいだく県民の世論を今一度掘り起こし、「再稼働同意プロセスは民意を無視した不当なもので、安全性も避難計画もまったく解決されていない」という事実を粘り強く訴えるために、すべての県民が目にするよう、チラシをどしどし配布しよう。
さらに3月27日の集会・デモや、4月18日のシンポジウムを通じて、ふるさとを台無しにする原発からの脱却を、多くの人との絆で作り上げていこう。3.11から10年。福島に寄り添い、放射能の脅威を感じる必要のない「人類の高み」を目指して。
(事務局 舘脇)